日曜学校について

 

 毎週、主日礼拝の前、午後2時から日曜学校が開かれます。礼拝室にあつまり、子ども礼拝のなかで聖書の話を聴きます。現在は数名の小・中学生が出席しています。高等学校の生徒が参加してくださるなら、大人の礼拝に与り、その上で高校生のための集会を開くことになります 。その他、年に一度は近畿地区の教会が連合で開く修養会に出席することを楽しみにしています。伝道所単独で、琵琶湖や近くの山に出かけることもありました。

 

  子ども礼拝で語られた聖書の話                     


           

                                        

 

 以下の日曜学校でのお話しの内、第1回から第37回の番号がふってある子ども礼拝説教は、主イエスの生涯をえがいています。順番にお読みくださると、福音書に描かれた主イエスの出来事を、順序立ててたどることができます。

 

 

                                                             

歩みを止めて下さる主(マルコによる福音書5章21-43節)

 

  本日の箇所には主イエスの為された二つの癒しの物語が記されています。出だしには「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。」とあります。真っ先にやって来たのが会堂長のヤイロという人でした。会堂長というのは当時それなりの地位があった人で、礼拝や会堂のことを司っていた人のことです。その彼が主イエスの足もとにひれ伏し、自分の幼い娘が死にそうになっているので主イエスに手を置いてほしいと願い出たのです。そして、主イエス一行は出かけることになりましたが、その途上で、出血の止まらない女が主イエスに近づいて来たのです。26節には「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」とあります。その背景には、病気による肉体の苦しみ以上に、汚れた者として、社会の人々から避けられ、救いから遠い者と見なされることがこの女性を苦しめていたのです。28節には「この方の服にでも触れれば癒していただける」と思ったとあり、後ろからそっと主イエスの服に触れたのです。この人は決して他のものに触ってはいけない汚れた者とされていましたから、この行為は迷信的であると共に、大胆な行為でもあったのです。その女性が主イエスの服に触れるとすぐに病がいやされたことを体に感じたのですが、主イエスはこのことに気づき「わたしの服に触れたのは誰か」と言われたのです。これは、かってに自分の服に触れたことによって癒された人を責めようとしているのではなく、この人の本当の救いのために出会おうとしてくださったのです。主イエスは一刻も早くヤイロの家に行かなくてはならない中で、足を止められたのです。34節には「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」とありますが、この女の抱いた思いは決して立派な信仰と呼べるようなものではありませんでした。

 私たちの思いや行いが信仰と程遠いものであっても、主イエスはそれを「信仰」と言ってくださる、私たちは自らの信仰を確かめることはできませんが、主イエスが私たちに信仰を見て下さるのです。主イエスとの出会いは、奇跡的な業で願望をかなえてくれる救い主と出会うことではないのです。私たちが神を求める思いがどれだけ不実なものであったとしても、その信仰とも言えない思いを信仰として受けとめて下さる、信仰の確かさは私たちにありませんし、私たちの主を求める思いは真実なものではありません。都合の良い時に自分勝手な思いで求めるだけなのです。そのような人間の、自分の思いに神を従わせようとする思いの背後で、主イエスは十字架に就かれたのです。

 

第1回 洗礼者ヨハネの受胎告知(ルカによる福音書1章5-25節)

 

 クリスマスは読者の皆様がよくご存知のようにイエス様の誕生を記念して全世界で祝われているキリスト教における大切な出来事です。イエス様が30歳の頃、公生涯(イスラエルの民に、神の国とご自身による救いの教えを語り、癒しの業をなされ始めた時)に入られた時、その道備えをしたのが洗礼者ヨハネでした。洗礼者ヨハネにつきましては後の回で取り上げますが、ここではイエス様誕生の6ヵ月前、洗礼者ヨハネの受胎告知がありました記事について取り上げます。

 ユダの町にザカリアとエリザベトという老夫婦が住んでいました。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めを全て守り、非の打ち所のない人でした。二人とも長年子供を授かるように神に祈りを捧げてきましたが、子供に恵まれないまま既に歳を取ってしまいました。ある時、御使いガブリエルがザカリアに現れ、妻エリザベトが男の子を産むのでヨハネと名づけなさい。ヨハネは主の御前に偉大な人となり、主の道備えをする人となる、と告げます。これに対しザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も歳を取っています。」と答え、御使いのお告げを信じられず否定してしまいます。御使いは「あなたは口が利けなくなり、この事が起こる日まで話すことができなくなる。」と告げ、ザカリアの口を利けなくしてしまいます。そこには、信仰厚きザカリアでさえ神の全能(神は何でもおできに成る)を信じられず、経験や常識を優先する私たちと同じ振る舞いが示されています。

 ザカリアの取りました態度は、(第2回にはイエスの受胎告知を取り上げますが)マリアの取りました態度とは異なっています。ルカによる福音書1章45節には「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」とありますが、私たちの人生に神様が介入されたとき最初に取るべき態度は、静かに思い巡らせ、心に刻むことが大切なのではないでしょうか。聖書には見て信じる人々が大勢登場しますが、見ないで信じる者とされたいと思います。

 

第2回 イエスの受胎告知(ルカによる福音書1章26-38節)

 

 マリアへのイエス受胎告知は多くの画家が題材として描いていますのでご存知の方も多いと思われます。ザカリアのときの半年後に同じく御使いガブリエルがマリアに現れイエス誕生の予告をします。マリアはザカリアが示した不信というより、驚きに近い態度を示しますが、結局「神にできないことは何一つない」という御使いの言葉を受け入れ「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言って献身します。そこにはザカリアとマリアという不信と献身が対比され描かれています。旧約聖書の創世記に出てきます老齢のアブラハムとサラにイサクを授かったという先例があることでもあり、ザカリア夫婦にとって、ヨハネ誕生はもともと喜ばしい出来事だったのです。ザカリアの舌を固まらせるという神の措置は罰なのですが、ザカリアはその沈黙の中で今度こそ神への信頼を固める契機となったと思われます。一方、マリアの方は婚約中の身であり、婚約者以外の子供を生んだとなれば当時の刑罰で「石打の刑」に処せられ、またヨセフとの間に不仲や婚約解消も考えられるような深刻な現実がありました。「聖霊があなたに下り」とあるとおり、「お言葉どおり、この身になりますように。」と語るマリアを「いと高き方の力が」すでに包んでいることが分ります。婚約者ヨセフにも聖霊が下り、全てがイエス誕生に向かいます。神が選び、聖霊の力によらなければなされなかった出来事です。私たちの常識によれば、聖霊によりおとめマリアより生まれることには否定的な思いを抱かざるを得ませんが、神が人の子としてこの世界に降された恵はこのことによらなければならなかったのです。そしてその事を本当に信じられるのも聖霊の働きによります。

 

日曜学校特別版 小林宏和先生の説教(フィリピの信徒への手紙1章1節 )

 

 今夏、夏期伝道実習として伝道所に来られました東京神学大学神学生小林宏和先生が8月29日に日曜学校でお話くださいました。その内容を掲載いたします。

 新約聖書には多くの「○○への手紙」という文書があります。その中の一つがフィリピの信徒への手紙です。1章1節は挨拶となっていますが、手紙を受け取った時まず私たちが確かめるのは差出人です。この文書の差出人はパウロとテモテですが、挨拶文の冒頭に「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテ」という書き出しから始まりますのは異例と言わざるを得ません。通常、自己紹介する際は相手に不信を抱かせないようにするため自分が良い立場にいることを明記するものです。キリスト・イエスの僕ということはキリスト・イエスという主人の召使、奴隷ということを意味します。奴隷制度は今の日本にはありませんが、奴隷というのは主人の命令は何でも聴かなければなりません。ですから、奴隷という低い、悪い立場を表明することは大変不思議な表現であると言えます。昔も今も、私たちは自分のやりたいことを大切にし、自分の意志で何でも片付けようとします。言わば自分が主人として振舞うことが普通の感覚です。ところが、私たちは好不調の波が多く実際には好調の時のみ自分を主人としているのではないでしょうか。パウロとテモテはそのような人間の力によらず、本当に力ある主人はキリスト・イエスだけであり、この方に御仕えしている、と主張しているのです。私たちの救い主は主イエス・キリストだけです、と言っているのです。聖書はとても不思議な書物で、たまに触れるだけではなかなか理解できませんが、1週間に1回教会(伝道所)で礼拝を守り、聖書のお話を聞くことにより私たちは少しずつ理解できるようになります。これからも続けて礼拝を守ることにより、キリスト・イエスに御仕えするということはどういうことなのか、ということが分るようになれたら良いと思います。

 

 

 

第3回 マリアのエリザベト訪問(ルカによる福音書1章39-56節)

 

  エリザベトはヨハネの母となる役割、マリアはイエスの母となる役割をそれぞれが受け入れましたものの、エリザベトには高齢出産、マリアには婚約者によらない聖霊による妊娠という不安があったと思われます。マリアは天使が神の力により親戚のエリザベトも高齢にもかかわらず男の子を身ごもった、と言われたことに思いをめぐらし、急いでエリザベトに会い、聖霊の恵の出来事の意味を共に確認したいと思ったはずです。

マリアの訪問の挨拶を聞いたエリザベトは聖霊に満たされ、主を讃美します。マリアもこれに呼応するように有名なマリアの賛歌を語り、共に喜びます。そこには貧しく、弱く、小さい者を恵み給う主が歌われていて、マリアの心から砕かれた魂をもって救い主を待ち望む姿が描かれています。この賛歌はJ・S・バッハ(*1)を初めとする多くの作曲家が曲をつけていますが、讃美歌にもこのマリアの賛歌に合わせて作られた讃美歌95番があります。以下にその歌詞を記します。

1.  わが心は 天つ神を 尊み 

わが魂 救い主を ほめまつりて 喜ぶ

2.  数に足らぬ わが身なれど(はしためをも) 見捨てず 

万代(よろずよ)まで さきわいつつ 恵み給う うれしさ

3.  御名は清く 大御業は かしこし 

代々に絶えぬ み慈しみ 仰ぐ者ぞ 受くべき

4.  低き者を 高め給う み恵み

おごる者を 取りひしぎて 散らし給う み力

5.  アブラハムの すえをとわに かえりみ

イスラエルを 忘れまさで 救いたもう とうとさ

カトリックにおけるマリアへの態度はプロテスタントとは異なりますが、2番に、数に足らぬとありますように、神は極めて普通のマリアという女性をキリスト誕生の器として用いられたということなのです。そこにはマリアという器を通して、神の御業の大きさを人々に告げ知らせる神のみ旨が示されています。

(*1)バッハはその宗教曲の最初に「JJ」(Jesu juva!=イエスよ、助けたまえ)、最後に「SDG」(Soli Deo Glorial=ただ神のみに栄光を)と書き込むことを常とした厚い信仰を神様からいただいていました。

 

 

第4回 洗礼者ヨハネの誕生(ルカによる福音書1章57-80節)

 

  月が満ちてエリザベトは男の子を産みます。当時のユダヤの風習では父の名を採り、名付けることが通常でしたので、周囲の人々は「ザカリア」と名づけるものと思っていました。エリザベトはヨハネと名付けなければと言いましたが、最終判断はザカリアに委ねられました。口が利けないザカリアは書き板を出させて「この子の名はヨハネ」と書きましたので人々は大変驚きました。同時にザカリアの舌も解け神を賛美し始めました。以下は聖霊に満たされたザカリアの預言の一部です。

 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。

 主に先立って行き、その道を整え、

 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。

(預言は予言とは異なります。予言は未来のことを予測して言う言葉ですが、預言は神から預かった言葉を述べるという意味で、神の言葉そのものです。預言者は神に用いられた器として神の御心のままを語りました。)

ザカリアの預言にはヨハネの役割がしっかり語られていることが分ります。ヨハネは身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいました。

 

 

第5回 イエスの誕生(ルカによる福音書2章1-40、特に1-7節を中心に)

 

 旧約聖書にはイエス誕生の数百年前にもかかわらず主イエスを預言・示唆する箇所が350箇所以上あります。特に誕生にまつわることとしては誕生場所がベツレヘムであることを示すミカ書5章2節を初めとして、ダビデの家系であること、ナザレで育つこと等が預言されています、イエス誕生は神の約束の実現なのです。順を追って解説しますと、主イエスの誕生は、皇帝アウグストゥスという歴史上の人物が当時14年毎に実施された住民登録に巡り合わせた歴史上の出来事ということです。現代の日本で時々実施される国勢調査のようなものですが、当時のローマ帝国の威信を示すと同時に、税金を漏れなく徴収するためのしくみの一つでした。ヨセフとマリアもこのためナザレからエルサレムへ旅立ちます。住民登録でごった返すベツレヘムの宿の主人は宿の玄関の前に佇む二人の男女を顧みる余裕もなく、家畜小屋での主イエス誕生となりました。私たちも目の前に起きていることや思い煩いに精一杯で神と神のひとり子に思いを致すことの少ない者ではないでしょうか。決して恵まれた場所で誕生したわけではありませんが、そうであるからこそ、聖霊により身ごもられ、おとめマリアより生まれることを通して、神が人として私たちの救いのために最も低く降って来られた、ということなのではないでしょうか。

 

 

第6回 羊飼いの訪問(ルカによる福音書2章8-21節)

 

 ベツレヘムの郊外で夜通し羊の群れの番をしている羊飼いたちに天使が現れ「今日ダビデの町に救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」とお告げになります。寝ずの番をしている羊飼いにまず主イエスの御降誕の知らせが 届けられたのはなぜでしょうか。律法学者や祭司は、昼に行なわれる神を崇めるユダヤ教の祭儀(キリスト教でいう礼拝)や神から与えられた律法に忠実であり、知恵と力と富を兼ね備えていました。羊飼いたちはこれらとはまるで縁のない小さき存在でありました。ただし何も持たないゆえの素直な信仰があったのです。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って急いで出かけます。ひょっとすると明日の仕事に差し支えたかもしれませんが、天使の知らせに行動する者となったのです。本気になって神の御言葉に従う、そのところに神様は喜んで働いてくださるのです。私たち持つ者は常識の範疇で物事を捉え、「あれもできないこれもできない」と神からの呼びかけにしばしば行動を躊躇し、後回しにしていないでしょうか。素直に行動する信仰を与えてくださいと祈りたいと思います。

  

 

第7回 占星術の学者たちの訪問(マタイによる福音書2章1-12節)

 

 クリスマスの主イエスの降誕劇に羊飼いと並んでよく知られていますのは占星術の学者たちの訪問です。数々の伝承はさておき、大切なことに絞りお話します。

1.東方で見た星を頼りにユダヤ人の王を拝みに来たこと

 ただ主イエスを礼拝するため、ひれ伏して幼子を拝むためにのみ、時間と労力を掛け長く危険な旅をし、持てる最高の宝を捧げたのですが、これは同時に希望の旅でもあったのです。彼らの日常を離れ、礼拝するべきお方を礼拝する時、本来あるべき姿に変えられます。占星術の学者ほどの長旅ではありませんが、私たちの1週間も主イエスを礼拝することから始まるのです。週間の労働・家事・学び、はすべてこの礼拝への備え、ということです。

2.エルサレムの人々とヘロデの反応

 長旅をした占星術の学者たちはユダヤ人の王は当然都の神殿に生まれていると思い、ヘロデを訪ねますが、歓迎されるべきキリストの誕生という空気は全くなく、ヘロデとその周辺のエルサレムの人々(祭司や律法学者)は自分の立場を脅かすのではないかと不安に感じます。占星術の学者たちはさらに旅を続け、星の導きによりベツレヘムの家畜小屋にたどり着きます。

3.異邦人がまず礼拝したことについて

 イスラエルの人々(祭司や律法学者)の恐れと拒否に対し、異邦人(占星術の学者)の礼拝が描かれ、ここに全世界の救い主であることが宣言されています。

 

 

 

第8回 エジプトへの避難とナザレへの帰還(マタイによる福音書2章13-23節)

 

 この箇所はクリスマスの直後から始まります三つの出来事からなっています。

1.エジプトへの避難

主の天使が夢でヨセフに現れ、ヘロデが主イエスを殺そうとしているのでわたしが告げるまでエジプトへ逃れなさい、と言います。ヨセフは直ちに夜の内にエジプトへ逃れ、幼子イエスを守りつつ3人の生活を始めます。

2.ヘロデの幼児虐殺

ヘロデは、イエスの誕生を知らせてくれなかった占星術の学者たちにだまされたことに怒り、ベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を皆殺しにし、未来の「ユダヤ人の王」と称される可能性ある者を根絶やしにしようとしました。

3.ナザレへの帰還

主の天使が再び現れ、ヘロデは死んだのでイスラエルへ戻りなさい、と言いますが、ヘロデの息子の支配から逃れ、エルサレムやベツレヘムではなくヨセフの故郷であるナザレへ帰還します。

この三つの出来事は旧約聖書の預言の成就としてマタイによる福音書では括られていますが、それにも増して、ヘロデの虐殺は人間の業であり、これから幼子イエスを守る神の主権的な働きが感じられます。聖霊の促しにより天使の御声を聞き、ヨセフがこれに直ちに従った、委ねた、ということではないでしょうか。

 

 

 

第9回 神殿での少年イエス(ルカによる福音書2章41-52節)

 

少年イエスを描いた聖書の記事はここのみですが、両親は慣習に従って過越祭(*1)にエルサレムへ毎年一族と共に旅をしていましたが、少年イエスが12歳になったとき初めて同道させました。ナザレからエルサレムは3日の距離です。祭りが終わり帰路に着いたとき、少年イエスもついて来ているものと思い1日の道のりを行きましたが、いないと分り探しながらエルサレムに戻ります。そして、3日目に神殿の中で学者たちの間で話しているイエスを見つけ、両親共に非常に心配したと、告げます。ここまではありそうな出来事ですが、ここからの少年イエスの言われたことは将来を予想させる重い言葉でした。「わたしが父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」という言葉の本質は「父なる神、その神に属するもの、神のものとして、あらねばならない。」ということであり、人間、家族の情を離れて神の御心に従う時が来ることを暗示しています。12歳の少年イエスは少なくとも自分は神の子であるという意識を持って生きていたことが分ります。

(*1)過越祭はモーセによるイスラエルの民の出エジプトの際、これに反対するエジプト王ファラオに対する神からの10の災厄のうちの10番目の災厄で、出エジプトの決定打となったものです。それは人間を含む動物全ての初子の命を絶つというものでしたが、家に印をつけておくようにとの神のイスラエルの民に対する指示により、イスラエルの民の初子の命は助かり、これを記念して祭りとしたものです。

 

 

 

第10回 洗礼者ヨハネのメッセージ(マタイによる福音書3章1-12節)

 

 旧約聖書のイザヤ書40章で、主なる神様が遣わされる救い主のために道備えをするものが現れると預言されていますが、それこそが洗礼者ヨハネです。ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と語って、救い主イエス・キリストのために道を整えたのです。天の国は近づいたという意味は、主イエス・キリストがこの世に来られ神の御支配が確立する時が迫っている、という意味なのですが、これを悔い改めることによって迎えなさい、と言っているのです。悔い改めるとは、罪を数え上げて告白するということではなく、自分中心で自分が王座につくのではなく、心から神(主イエス)に王座を明け渡すことです。さて、ファリサイ派(律法学者)やサドカイ派の人々も悔い改めの洗礼をヨハネから受けるためやってきましたが、ヨハネは「おまえたちは神の怒りを免れることはできない」とけんもほろろの扱いをします。何故でしょうか。それは彼らが自分たちをイスラエルの民としてイエス・キリストを抜きにして既に救いの中に入れてしまっていたからなのです。悔い改めは救いを完璧にする添え物でしかなかったのです。そこには自分たちの正しさを優先している姿があります。悔い改めの本質は、悔い改める者を赦してくださる神様の恵みにこそあり、そこに救いがあるのです。ヨハネの洗礼は悔い改めの印としての水による洗礼でしたが、主イエスの洗礼は、ヨハネが「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と言っている通りです。それは、主イエス・キリストが、その十字架の死と復活によりわたしたちの罪を赦し、恵の下に生きる新しい命・新しい生活を与えてくださる尊い印なのです。

 

 

 

 

第11回 イエス、洗礼を受ける(マルコによる福音書1章9-11節)

 

  洗礼者ヨハネは主イエスの道備えとして人々に悔い改めの洗礼を授けるために登場しましたが、罪のない主イエスは何故ヨハネから洗礼を受けたのでしょうか。大変謎めいていますし、普通に考えれば本来ならヨハネが主イエスから洗礼を受けるべきと思われます。それは、主イエスが洗礼をお受けになることによって私たちと同じ罪人の立場にお立ちになり私たちと一つになってくださった、ということです。同時に天が裂けて聖霊が主イエスに降ったのですが、この聖霊は、イスラエルの人々が思い描く、悪しき力、ローマの支配に対して、武力でもって開放をもたらす力ではなく、私たち罪人の身代わりとなって主イエスが十字架にかかり死して復活されるという福音の力であり、ペンテコステを契機とする教会誕生の力でもあったのです。天の声が「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と宣言されましたのは、神がそういう愛する独り子を御心に適って、私たちの贖罪の犠牲としてくださったという宣言なのです。イエスの洗礼はそういう意味で私たちのこの世界への登場であり、福音の初めとして位置づけられます。

 

 

 

第12回 イエス、誘惑を受ける(マタイによる福音書4章1-11節)

 

  主イエスは伝道を始められる前に荒野において悪魔の三つの誘惑をお受けになられました。40日間の断食の後受けられた最初の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」というものでした。これに対し主イエスは2番目の誘惑にも通じますが神を試みようとはされず「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」とお答えになりました。パンは食物・健康・財産・職業・生き甲斐・家族・友人・名誉等を象徴したものですが、それは神様が既に備えてくださっているということであり、それよりさらに大いなる神の言葉=主イエスによって与えられる恵、が与えられているということなのです。2番目の誘惑は「エルサレムの神殿の屋上から飛び降りよ。神の子ならば天使がちゃんと支えてくれるはずだ。」というものでした。主イエスは「あなたの神である主を試してはならない。」と悪魔を退けられます。私たちは自分都合の願い、神様の利用価値を計るものではないでしょうか。神の恵みをそのように矮小化すべきではないのです。第3の誘惑は世界のすべての国々と繁栄を示して「もし、ひれ伏してわたし(悪魔)を拝むなら、これをみんな与えよう。」というものでした。主イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」と答えます。私たちの喜びも悲しみ苦しみもすべて神様のものなのです。私たちは往々にして喜びの恵のみ認めようとする者で、神を試す者です。そのようにではなく、主イエス・キリストの十字架の死と復活というしるし、その神様の恵に生きるとき、あらゆる状況にあってもこれを超える希望の中で生きることが出来るのです。

 

 

 

第13回 ニコデモと出会う(ヨハネによる福音書3章1-17節)

 

 ニコデモというファリサイ派の議員が主イエスと出会いました。彼は主イエスのことを「神のもとから来た教師」「神が共におられる」と一定の評価をしますが、その背景にある不信仰を主イエスは見抜き次の言葉で返します。「誰でも、新しく生まれなければ、霊と水によって新しく生まれ変わらなければ、神の国を見、神の国に入ることは出来ない。」ニコデモは相応の年齢に達した教養ある大人としてユダヤの筋金入りの信仰は持っていましたが、「年取った者が、どうして生まれ変わることが出来ましょう」と拒否します。そこには、神様を信じると言いつつ、自分はこのままで良い、たとえ神様によっても自分は何も変わりたくないと思っている私たちの姿があります。自分の経験・考え方・生き方がじゃまをして自分は変わらないで、神様の恵だけはいただきたい、自分の考える救い、頭の中の範囲だけの恵をいただくということなのです。これでは私たちの思いを遥かに越えた神様の恵みを受けることはできませんし、生まれ変わることは出来ません。この聖書の箇所のすぐ後に有名な聖句があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここには頑なな私たちを何としてでも救わないではおかないという神様の強い意志があります。聖霊によって生まれ変わった私たちは、自分自身が自分の人生の主人ではなく、神様が自分の人生の本当の主人であること、自分の命が、神様に与えられた命であること、が分るようになります。

 

 

 

第14回 サマリアの女と出会う(ヨハネによる福音書4章1-42節)

 

 ある事情を持つサマリアの女が、誰も水を汲みに来ない暑い真昼間の井戸に水を汲みに来て主イエスと出会い、主イエスに「私に水を飲ませてください」と頼まれます。女はユダヤ人が軽蔑するサマリア人でしかも女に声をかけた事(当時も男性社会)に驚き、防御的反応を示します。主イエスはご自分が誰であり、根源的なすばらしい「生ける水」という賜物を与えようと言われます。女はこれに対し、まだ物質的な水のことが頭にあり、「深い井戸からどのようにして汲むのか」と問い返します。主イエスは女が抱えている内なる問題・魂の渇きを見抜かれていて、「あなたには5人の夫があったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではない。」と女の暗部を言い当てます。女は驚きと共にメシアと礼拝について問い、主イエスは「わたしがそれである」と答えます。女は、本当の自分を知ってくださっている主イエスと出会うことにより、心を開かれ生き方を変えられます。人目を避けて暮らしていた女が多くの町の人にこのことを証します。私たちの抱えている人には曝せない様々な思いは、主イエスの方からかけてくださる御言葉により解放されるのです。主イエスは私たちの救い主であり真の理解者なのです。

 

 

 

第15回 ナザレで受け入れられない(ルカによる福音書4章16-30節)

 

 主イエスが故郷であるナザレでイザヤ書61章を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られた時、主イエスの幼少時を知る聴衆は驚くと同時に主イエスが神から遣わされた証拠を求めようとしました。主イエスがそれを拒否したため結局主イエスの恵は受け入れられず、敵意と殺意を抱くようになりました。主イエスの御言葉が神からの言葉かどうかを自分で判断するということであれば、一番偉い主人は自分になってしまいます。神様を、主人である自分にせっせと証拠を示して認めてもらわなければならない立場に貶めているのです。そのような思いでいる限り、私たちは神様と出会うことは出来ません。私たちは神様と隣人に対し罪という自分の力では到底返すことの出来ない負債を負っています。主イエスは十字架の死と復活によりこれをすべて肩代わりし、赦してくださっているのです。

 

 

 

 

第16回アンデレ、シモン、ヤコブ、ヨハネを弟子にする(マタイによる福音書4章18-25節)

 

 主イエスがガリラヤ湖畔を歩いている時に4人の漁師を弟子とした物語です。4人の漁師は特別な見識があるわけでもなく、日々の糧を得るために目の前のことに追われて働き、救い主がすぐ側にこられているという大切なことに気付かない私たちでもあります。そこに主イエスの方からの「わたしについて来なさい」という呼びかけがありました。主が望んでおられるのです。4人の漁師はこの主イエスのお言葉に「すぐに」従ったのです。従わざるを得なかったのです。私たちは様々な理由をつけて、言い訳しながら主の言葉から距離を置こうとする者ではないでしょうか。仕事や財産・家族と縁を切るという不思議な行為がそこに起こされています。自分自身に対するこだわりや自分の持っている物を必死に確保し守ろうとすることは通常捨てられるものではありません。主イエスを見て私たちの考え方や生き方を自分の意志で変えることとも違います。それは、私たちより私たち自身のことをよく知っておられ、私たちのためにその命を十字架に捧げてご自分を捨て切って下さった主によってこそ、捨てさせられたということなのです。主イエスによって求められたからこそなされた業なのです。この後、主の道を歩んだ弟子たちの歩みは、決して充分と言えるようなものではありませんでした。この道の最後十字架においては誰も主と共にいなかったからです。私たちも充分従い得ない者ですが、そのような者にこそ主イエスは十字架に赴かれ命を捧げて下さったのです。

 

 

 

第17回 マタイ(レビ)を弟子にする(マルコによる福音書2章13-17節)

 

  前回の4人の漁師との共通点は主イエスの元に話を聞きに来た人々ではなく、仕事中のレビ(福音書によりマタイと呼ぶ)をご覧になり、「わたしに従ってきなさい」と言われたことのみです。レビは収税人でしたが、収税人は当時のユダヤの支配国ローマ帝国に代わって税金を集める仕事をしたのですが自分の利益のために余分に集める権利を有していました。従いましてインテリで金持ちでありましたにもかかわらず、売国奴・裏切り者として当時の罪人たち(外国人・遊女・病人等)と同じ位置付けでした。レビは弟子とされたことを喜び自宅を開放しお祝いの食事をしますが、招かれたのは主イエス一行と自分と同じ位置付けの罪人と呼ばれた人たちでした。そこに、ファリサイ派の律法学者が「どうしてイエスは徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問いただします。彼らの常識では罪人とは食事を共にしないということであり、このことは今まで皆目なかったことであり、躓きの元となったのです。この躓く人々に対して主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とお答えになりました。私たちもファリサイ派の人々と同じく自分を救われた者正しい者であるとして、他者から区別する者ではないでしょうか。また福音を聞いてもそれが自分の生活の中で生きていない者、自分の現状に開き直り主イエスが語られたことに気付くことが出来なくなっているのではないでしょうか。私たちは救いにおいては丈夫な者ではなく病人であることに気付く必要があります。十字架と復活という福音は罪人すなわち、すべての人のためにあるのです。

 

 

 

第18回 イエス、12人の弟子を選ぶ(マルコによる福音書3章13-19節)

 

  主イエスは前2回を含み12人を任命し使徒とされました。その名はペトロ(シモン)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ(レビ)、トマス、ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それにイスカリオテのユダでした。それは主の一方的主権であり、主がお望みになったことであり、選ばれる側には何の理由も根拠もありませでした。それは主の召しということなのですがそれには三つの目的がありました。(1)主のそばに置くため(2)派遣して宣教させるため(3)悪霊を追い出す権能を持たせるため、ですが、この内全体を支える決定的な原点は「そばに置かれる」ということなのです。これは私たちにとっても重要で、私たち一人ひとりを「そばに置かれる」ということは、聖霊の働きにより寄り添い共に歩んでくださる、ということでもあります。主イエス・キリストこそが、この世界と私たちが抱えている様々な問題に対する、神様からの根本的な答えであり、主イエス・キリストこそが、神様の元から迷い出てしまった私たちが、再び神様のもとに立ち帰り、生かされていることの意味を取り戻させてくださるただ一つの救いの道であるからです。私たちが語るべき言葉は、私たちと社会の必要によっては生まれません。神の独り子が、私たちの罪のために十字架の上に死なれたこと、私たちが義とされて生きるために復活させられたこと。この主イエス・キリストの十字架と復活を抜きにして私たちの語るべき言葉はありません。

 

 

 

第19回 山上の説教(マタイによる福音書5章1節-7章28節)

 

 山上の説教にはいろいろな教えが含まれています。日曜学校でこの4月から8月まで連続してお話した「主の祈り」、また、野外日曜学校でお話している途中の「八つの幸いの教え」、その他キリスト教の外の世界でも有名な「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」を初めとする教えの数々が含まれています。ここではそのことには個別に触れませんが機会を見てお話しすることとします。全体を通して大切なことのみを述べます。

1.  この教えは主イエスに従った者たち(弟子と群集)に語られたものであり、世間一般に語られているのではありません。また、キリスト教的なものの考え方が語られているのでもありません。主イエスが教えた宗教的、道徳的教訓でもありません。

2.  それは、シナイ山でモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒が旧い契約とすれば、主イエス・キリストによってもたらされた新しい契約のことが語られているのです。それは私たちのために神様の独り子である主イエス・キリストが、人となって来て下さり、私たちの罪をご自身の身に負って十字架にかかって死んでくださったということと、復活されたことにより私たちを支配している死の力を打ち破って下さった、ということなのです。ただし、私たちはそのことだけではその救いの恵の中に留まり続けることは出来ません。罪赦されたからには何をしても、勝手気ままでも良い、ということではなく、それでは再び罪の奴隷に逆戻りとなります。

3.  山上の説教は十戒と並んでそのことを守り行なえば救われるという救いの条件ではありませんが、罪の赦しの恵の中に留まり、その自由を維持して、何に努め、どのように自制していくべきかを教えてくれます。父なる神様との交わりに生きるための道しるべを与えてくれるのです。私たちはそれを自分の知恵と力で守ろうとするのではなく、主の御業に委ねて生きるのです。

 

 

 

 

第20回 洗礼者ヨハネの死(マルコによる福音書6章14-29節)

 

 罪の悔い改めを説いたヨハネは民衆だけではなく時の権力者にも神に発ち帰ることを勧めました。主イエス誕生の頃、幼児虐殺をしたのはヘロデ大王ですが、その息子ヘロデ・アンティパス(以降ヘロデと表わす)にもヨハネは神の御言葉を説きました。ヨハネはヘロデが兄弟の妻ヘロディアと結婚していたため、律法によれば赦されないことであると権力者を恐れず非難したのです。そのため、ヘロディアの恨みを買い、ヘロデにより投獄されます。さて、ヘロデの誕生祝の席でヘロディアの娘が踊りを踊り、その褒美としてヘロディアの差し金によりヨハネの首を要求することになったのです。ヘロデは首をはねるよう命令を下し、首は盆に載せられることとなりました。ヘロデはヨハネの語る神の言葉に耳を傾けていながら、自分の立場を守るため、周囲の人に対する面目を保ちたいがためにヨハネを殺してしまったのです。それは、人が支配する世にあって神よりも人を恐れる人間の罪なのです。この事件はあまりにも残忍で非道であるため私たちとは無縁のことと思われがちですが、そうではありません。私たちも神の言葉を自分の支配下に置いて、自分の都合の良いときには耳を傾けても、都合が悪くなると退けているのではないでしょうか。それは、自らの歩みの方向は変えないほうが楽であるからです。このヘロデとよく似たことにローマ総督ポンテオピラトによる主イエスの裁判があります。後の回で詳しく述べますが、真の神を恐れず人間の支配を優先する姿がそこにあります。そのような私たちに対し、主イエスは十字架の死から復活されることにより人間の罪の力に勝利されたのです。人間が支配する世の中で、私たちの罪を克服する形で主イエスが神の御支配を実現してくださったのです。

 

 

 

第21回 ペトロ、イエスをキリストと告白する(ルカによる福音書9章18-20節)

 

 主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問いかけ、ペテロが「神からのメシアです。」と答えた箇所です。ユダヤ教とキリスト教の決定的な違いは、主イエスをメシアとして告白するかどうか、ということです。2000年前のペテロの信仰告白は全てのキリスト者の信仰告白の源流と言えます。そしてこの信仰告白は主イエスが語った教えや普遍的真理を信ずるというよりも、主イエスそのお方自身を信じ、従って生きることです。ただし、ペトロを初めとする弟子たちのメシアのイメージは「メシアはその力でローマと戦い、これを破り、力による新しい世界秩序を構築する」というユダヤの民衆と同じく誤った理解であり、このことは復活の主イエスが弟子たちに現れ、主イエスが昇天されるまで続きました。ペトロの告白の後これを主イエスは正そうと次の御言葉を語られます。それは、「自分について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」というものでした。「自分を捨て自分の十字架を背負って」という主イエスの道は大変厳しく到底私たちにはついて行けそうもないと怯みそうにならないでしょうか。次回には、少しこの言葉を解説し喜びをもってついて行きたいと思います。

 

 

 

第22回 イエス自分の死を予告する(ルカによる福音書9章22-27節)

 

主イエスはペトロの信仰告白の後、これを正そうと、ご自身の受難予告と復活予告をされましたが、弟子たちは主イエスが何を言っているか、さっぱり分りませんでした。前回の主イエスが語られた「自分について来たい者は……」から始まります御言葉の「主イエスに従う」とはどういうことなのかをすこし丁寧に見てみましょう。これは主イエスのご命令ですから割り引くわけには参りませんが、「自分を捨て」という意味はキリストを知る以前の古い自己(目に見える何か、富・地位・名誉・家等を手に入れることを主眼とする)を捨てるという意味であり、この「自分を捨てる」ことが目的ではなく「主に従う」ことを目的として「自分を捨て、手に入れるのではなく手放す」いうことなのです。「日々」と言われますのは、1回きりの大きな達成の難しいことを計画して苦労の末、成し遂げるという大上段に構えたものではなく、日常的な営みの中で普通になされるもの、という意味です。「自分の十字架」というのは、自分の病気や欠け・苦しみを初めとした自分にかかっている負荷ではなく、神と主イエスと隣人に捧げる献身であり、それが自分の時間であったり財産であったりするのです。私たちはこれを歯を食いしばって必死で我慢しながらなすというのではなく、キリストを知り、この方による罪の赦し、永遠の命を受ける者と既にされている喜びの中で軽やかになす、喜びつつ捧げてゆく、そういう明るく楽しい歩みということなのです。

 

 

 

第23回 イエスの変容(マタイによる福音書17章1-13節)

 

  主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を高い山に連れて行かれたときのことです。そこで、主イエスのお姿が光り輝き、旧約聖書を代表する人物であるモーセとエリヤが現れました。モーセは出エジプトの指導者であり、エリヤは預言者の代表です。神のイスラエルの民への救いの歴史の全体が、この二人の中に凝縮していると言えます。これは旧約聖書における神の救いの歴史が主イエスに引き継がれるということを示しています。三人の弟子はそれと共に「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という神の宣言を聞くのです。ペトロが主イエスをメシアと告白したとき、主イエスは自らの受難と復活を予告しましたが、ペトロを初めとする弟子たちは全く理解しませんでした。ペトロは受難はあり得ないことであり、救い主としての栄光のみ期待していたのです。このイエスの変容のもう一つの意味は、そういう受難・十字架の苦しみと死へと向かわれる主が本質においては神の子として栄光に光り輝く方であることが明らかにされているのです。それでは光り輝くお姿を見たのが何故この三人の弟子だったのでしょうか。それはその後にあるゲッセマネにおいて、主イエスが深く嘆き悲しまれた祈りと関係するのです。このゲッセマネに同行したのがこの三人の弟子だったのです。十字架の死を目前に控え苦しみ悶える主は、あの光り輝く神の子でもあるということなのです。栄光に輝く神の子が、私たちのために十字架の死に至るまで徹底的に低くなってくださった、という主イエス・キリストの本当の恵が明らかにされるためだったのです。ペトロは主イエスとモーセ・エリヤにいつまでも居ていただけるように、仮小屋を三つ建てようと人間的な思いと工夫を口にしますが、神はこれを受け入れられませんでした。私たちも人間の知恵や工夫により様々なことをなして行こうとするものですが、神の宣言である「これに聞け」という言葉が大切です。主イエスの御言葉を聞くことが求められているのです。そのことを通して、聖霊の導きにより主に仕えて参りたいと思います。

 

 

 

第24回 マルタとマリア(ルカによる福音書10章38-42節)

 

 主イエス一行がある村にさしかかったときマルタという女が一行を家へ迎え入れます。マルタにはマリアという姉妹がいたのですが、彼女は主イエスの足元に座って、その話に聞き入っていました。主イエス一行のもてなしのためせわしく立ち働いていたマルタは主イエスに「マリアにも手伝うようにおっしゃってください。」と言います。それに対し主イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とお答えになります。私たちは自分の体験や感覚でこの話を読み込んでは誤ることとなります。この箇所は信仰のタイプのことを言っているのでもなく、時々に応じてマルタまたはマリアに徹する、という意味でもありません。二人とも間違いなく主に仕えている姿がそこにありますが、喜んで仕えているのはどちらでしょうか。マルタはせわしなく立ち働いている間に、自分のしている奉仕を喜べなくなり、姉妹を非難し始めるということになりました。そのマルタを主イエスは非難するのではなく、マリアのように御言葉に聞き入ることにより本当に受けとめることによってこそ、喜んで、自発的に、仕えることが出来ると語っているのです。この箇所のすぐ前には有名な「善きサマリア人のたとえ」があります。マリアには、強盗に会った旅人を助けたサマリア人のように「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましと勧めと恵が与えられようとしているのではないでしょうか。

 

 

 

第25回 エリコでザアカイと出会う(ルカによる福音書19章1-10節)

 

 主イエスがエリコの町に入られた時のことです。ザアカイという徴税人の頭がいました。徴税人はローマ帝国に代わって徴税する際、自分のために余分に金を集めることが出来ましたから、ユダヤの人にとっては売国奴で罪人であったのです。ザアカイは背が低かったので人々の間では主イエスを見ることができませんでした。そこで、いちじく桑の木に登り主イエスを待ちうけたのです。ところが驚くべきことに主イエスはザアカイをご覧になり、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まりたい。」とおっしゃったのです。主イエスは失われた者を探して救うために来られたのです。ザアカイはまさにそのような生き方をしていました。自分の名前をご存知の主が、世間の誰も相手にしないこの自分の家に、すれ違い横切るのではなく泊まられるのです。ザアカイの中で大切なものが変わり、自分の財産から自由になり、神様のために正しく使う道を選ぶようになったのです。自分が主イエスを求めていたと思ったその時に、既に主イエスが自分の名を呼び、自分のもとに来てくれ、自分と共に歩み、自分の中に宿ってくださった。このことは私たちにも重なる経験ではないでしょうか。

 

 

 

第26回 イエスとラザロ(ヨハネによる福音書11章1-44節)

 

  マルタとマリアの兄弟ラザロが、病による死から主イエスにより甦らされるという長い物語の要点のみ述べます。主イエスは死に直面したラザロの病を知らされたとき、すぐに向かわれませんでした。主イエスが到着した時、既にラザロは亡くなっていて、マルタとマリアは愛する者の死に直面しそれぞれの思いでこれを克服しようとしていました。二人に共通する思いは「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」という言葉に表されています。主イエスの救いの御業を命がある間にかなうものと限定している姿があります。姉妹と周りのユダヤ人が「主よ、来て、ご覧下さい。」と言う言葉の裏にも、もうどうすることも出来ない死という現実、完全に死に捉えられてしまって取り返しは付かないという悲しみの現場を見てください、という主イエスへの挑戦の含みが存在していました。これに対し、主イエスは、死の力がマルタやマリアから主イエスへの信仰を奪い去り、人々と神を引き離そうとしていることに憤られます。人々はいわば地上の生のみに目を向けていて、主イエスをこの世を歩む中で、困った時や苦難に直面したとき頼るべき人としか捉えていないのです。主イエスは神の栄光を示すために「ラザロ出てきなさい」と言って、ラザロを甦らされます。ここには主イエスが死を克服される方であることがはっきりと示されていますが、ラザロの甦りは、主イエスの復活とは根本的に異なります。確かなことは、ラザロもやがて肉体の死を迎えるように私たちもこの世で死を迎えますが、主イエスの十字架上の死と復活により、私たちは神との関係が修復され、復活の命に生きる者とされた、ということなのです。私たちはこの世の生を救いの目的とするのではなく、復活の命という真の救いに希望を置いて、神の栄光を求めて生きる者とされたいと思います。

 

 

 

第27回 エルサレム入城(マタイによる福音書21章1-11節)

 

  エルサレム入城から主イエスの地上の御生涯の最後の1週間が始まります。エルサレム入城が日曜日、その週の木曜の晩に主イエスは捕らえられ、金曜に十字架につけられ、その死から3日目の日曜の朝に主イエスは復活されます。ユダヤの人々はエルサレムへ入場される主イエスをどのように捉えていたのでしょうか。エルサレムをイスラエルの首都と定めたのはダビデ王でした。その「ダビデの子」と呼ばれる救い主が現れたら、その方は必ずこのエルサレムに来て、そこで王として即位される、それによってイスラエルは、ダビデの時代のような繁栄を回復することが出来る、と人々は期待していたのです。主イエスは三度にわたってご自身の十字架上の死と復活を予告していましたので、人々の期待と主イエスの思いには大きな隔たりがあったのです。主イエスはローマの将軍が凱旋時に乗る四頭立ての馬車で入城されたのではなく、ろばに乗っての入城でした。人々はそれでも「ダビデの子にホサナ。」と叫んで歓迎します。人々と主イエスの大きな隔たりにもかかわらず、主イエスはこれをお受けになりました。主イエスは確かに王として王の都エルサレムに入場されたのです。旧約聖書ゼカリヤ書9章9・10節にはろばに乗って入城される柔和で謙遜な王が預言されており、このことはその預言の成就だったのです。柔和で謙遜な王という意味は穏やかで優しい民を守る理想の王ということではなく、私たちが神と隣人とに対して日々犯している罪の全てを引き受け十字架上で死んで下さったという柔和と謙遜なのです。私たちが神に赦され神の子供として新しく生きることができるために、ご自身の命を犠牲にしてくださった、そういう柔和と謙遜なのです。ユダヤの人々が自分たちの理想と異なると「十字架につけろ」と叫ぶようになったり、十字架につけられた時に逃げ去る弟子たちのように、それが私たちの現実ですが、そのような私たちを十字架と復活により赦してくださっている王なのです。

 

 

 

 

第28回 ユダヤの支配者たちの策略とユダの裏切り(マタイによる福音書26章1-5,14-16節)

 

 祭司長たちやユダヤの民の長老たちは大祭司の屋敷に集まり、主イエスを捕えて殺そうと相談しました。その中で、祭りの間は民衆に人気の高いイエスを捉えて処刑すると騒ぎが起こるといけないからやめておいて、祭りが終わって町が落ち着いてから目立たないようにイエスを捕え殺そうと相談したのです。それは、主イエスが語られた二日後の過越祭において十字架につけられる、ということとは食い違っています。その後実現したのは主イエスの語られたとおりとなったのですが、「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」という主イエスの言葉は、確かに祭司長たちや長老たちの憎しみによって引き起こされたことでしたが、根本的には神の御心であったということなのです。さて、イスカリオテのユダは古来、銀貨30枚(4日分の賃金)で主イエスを裏切った極悪非道な罪人としての評価が定着していますが、果たしてそうでしょうか。聖書には「十二人の一人」という言い方で繰り返し出てきます。最後の晩餐の席で主イエスは「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」と言われたことに対し、弟子たちは動揺し「まさか私のことではないですよね。そうでないと言ってください。」と問い返すのです。そこには、主イエスを裏切るのは、弟子たちの中の誰でも有り得たことが表わされています。ユダは決して銀貨30枚のために裏切ったわけではありません。ユダは主イエスに不満を抱いていたのです。自分の思い自分がこうあるべきだと考えるそのあり方と主イエスは違うと感じ、自分の思いのほうが正しいと感じたのです。あるいは、自分の思いのほうへ主イエスを導こうとしたのです。そのことは、まさに私たちがしばしばしていることなのではないでしょうか。神が私たちに与えてくださる恵は、私たちの思いを遥かに越えているということなのです。自分の思いや期待を越えた主イエスの導きに従っていきたいと思います。

 

 

 

第29回 過越の食事、最後の晩餐(マタイによる福音書26章17-29節)

 

 過越祭はイスラエルの民の出エジプトを記念して祝われたのですが、出エジプトの決め手となったエジプト王とその民にかけられた最後の10番目の災厄を、イスラエルの民は神のお言葉により、戸口に子羊の血を塗ることにより免れたのを記念して子羊の肉と種のないパン(出エジプトの時急いでいたため酵母を入れてパンを焼く暇がなかった)を食べたのが過越の食事です。主イエスは地上での最後の晩餐として過越の食事を弟子たちとされ、聖餐の食卓を制定されました。そこにはユダも共に招かれているのです。主イエスは悲しみのまなざしと共に「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれてこなかった方が、その者のためによかった。」と、厳しい厳粛な言葉をかけられています。これは決して大したことのないどうでも良いような罪ではありません。私たちも裏切りの思い、主イエスを引き渡すような思いがあるのですが、そういう私たちをもユダを招かれたように招いておられるのです。決して見捨てることなく待っていてくださる、招いていてくださっているということです。主の日の礼拝で聖餐式がありますとき、そのような思いで感謝を持って礼拝したいと思います。

 

 

 

第30回 ゲッセマネの祈り(マタイによる福音書26章36-46節)

 

 主イエスは3人の弟子を伴って、最後の晩餐の後、祈るためにゲッセマネに向かわれました。主イエスは悲しみもだえ弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言われました。私たちは、主イエスは神の独り子であるから十字架にかかっても復活されることを知っているから、ということで案外このことを軽く受け止めていないでしょうか。主イエスにとって悲しみもだえずにはおれない恐怖を、共に眼を覚まして祈ってほしいと弟子たちに頼んでいるのです。

主イエスが死ぬばかりの悲しみの中で祈られたことは「父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御こころのままに。」というものでした。主イエスの祈りはここで激烈な信仰の戦いを繰り広げているのです。私たちの祈りはしばしば願いに終始しますが、むしろ御心のままにという後半部分が大切です。主イエスの二度目の祈りの言葉「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行なわれますように。」により、神の御意志に従って十字架の道へと歩む信仰が貫かれていることが分ります。ところで、このゲッセマネの祈りは主イエスだけが祈られた祈りではありません。「御心が行なわれますように」という祈りは主の祈りの「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」に当たります。主の祈りを本当に真剣に祈る時、私たちは大きな力と恵を父なる神からいただけます。弟子たちが陥った誘惑は私たちも陥りますが祈らなくなってしまうという誘惑でした。勇ましかったペトロでさえ十字架の前では三度主イエスを知らないと言ってしまうのです。「知らない」といってしまうペトロを含む私たちを主イエスは決してお見捨てになりません。私たちの決意でなく聖霊の導きを切に祈りたいと思います。

 

 

 

第31回 イエス、逮捕される(マタイによる福音書26章47-56節)

 

 最後の晩餐の後、姿を消したユダが武装した祭司長・長老・群集を引き連れて主イエスを逮捕にやって来ます。武装しているということの裏には、内心の恐れや自分たちが間違ったことをしているというやましさがあります。ユダも「先生、こんばんは」と言って接吻しました。これは逮捕者を特定する前もって決めた合図でしたが、ユダが友好的なふりをしようとするのは、やましさから、主イエスと正面から対決することを避けている恐れからなのです。これ対して主イエスは「友よ」と呼びかけておられます。主イエスはユダや私たちに対して常に心を開いておられます。心を閉ざしてしまうのはユダや私たちの方なのです。主イエスは私たちが心を開くのを待っておられるのです。そして主イエスは「しようとしていることをするがよい」と言って全てを受け入れられました。これに対して弟子の一人が剣を抜いて大祭司の手下に打ちかかり耳を切り落としました。これは正義感に駆られてというのではなく、ユダや武装した群集と同じく恐怖に駆られたためであったと思われます。主イエスは「剣を取る者は皆、剣に滅びる」という有名な言葉を語り、「必ずこうなると書かれている聖書の言葉」が実現、逮捕されます。「剣を取る者…」の一節は比較的安易にこの世界で流用されます。大切な事は主イエスが父なる神の御心に従順に従って十字架の苦しみと死を引き受けてくださったことです。主イエスが赦されたように私たちもなのですが、一切の報復を回避できる世の中は人が主人であるかぎり、主イエスの再臨の時まで待たなければ来ないのでしょう。

  

 

 

第32回 イエス、ユダヤの裁判にかけられる(マタイによる福音書26章57-68節)

 

 律法学者や長老たち(最高法院メンバー)はイエスを死刑に当たるものと断定することを目的として形だけの裁判を開きました。それは主イエスが彼らよりも民衆の心を捉え人気があるためであり 、彼らが到底語りえないような神の御言葉を語るためであり、彼らが出来ないすばらしい奇蹟、御業の行いに対するものでありました。要するに彼らは心の奥底では到底主イエスに敵わないという妬みと憎しみがあったのです。彼らの中心的な問いは「お前は神の子、メシアなのか」ということでした。ユダヤ教にはメシア信仰がありますがメシアはあくまで人間であり、神の子と自身を宣言することは神を冒涜することでありました。この問いに「イエス」であれば死刑、「ノー」であれば人々の期待を裏切り相手にされなくなる、ということで彼らは主イエスを追い詰めたつもりでいました。主イエスはこの問いに対し次の二つを答えられました。「それは、あなたが言ったことです」「しかし、私は言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言われたのです。後の言葉は主イエス自らが人の子であることを宣言した「イエス」の答えであり、前の言葉は「神の子、メシアであるかどうかはあなた自身が答えるべき問題だ」と言っているのです。彼らの答えは「お前は神の子メシアなどではない。ただの人間だ。ただの人間がそのようなことを言うのは神への冒涜であり、死刑に当たる罪だ」というものでした。私たちも「神の子、メシアと信じるか」という問いかけにどう答えるかによって主イエスを十字架につける者の一人となるのです。

 

 

 

第33回 ペトロ、イエスを否認する(マタイによる福音書26章69-75節)

 

 主イエスが捕えられたとき、弟子たちはペトロを含めて皆逃げ去ってしまいました。ただし、ペトロは遠く離れて大祭司の屋敷(ユダヤ裁判の開かれた場所)の中庭までついて行き、事の成り行きをそっと見守ろうとしたのです。ところが一人の女中が「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言います。ペトロは「何のことを言っているのか、私にはわからない 」と言います。さらに別な女中が同じ指摘をしますと「そんな人は知らない」と誓って打ち消しました。さらに周りの人々が再指摘しますと、呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓い始めます。ここには否認の程度が次第に大きくなっていることがリアルに描かれていますが、信じていると思っていても、何か事が起こる、状況が変化すると信じる心そのものまで失われてしまう、私たち人間の弱さが現わされています。人間の決心・決意が如何に危ういものであるかということを思い知らされますが、これは決して他人事ではないのです。さてペトロが主イエスを三度否認したとたん、主イエスが予告しましたように鶏が鳴きます。ペトロは主イエスの言葉を思い出し激しく泣きますが、これは打ちひしがれて激しい後悔をしたと取れるのですが、それだけではないと思います。彼は、鶏が鳴く声によって目を覚まされたのではないでしょうか。主イエスが、そのようなペトロを予め知っておられ自分を御手の内に置いて下さっている、そのことに気付いたのです。自分の力で信仰者であり続けるのではなく、主イエスの恵がどんな時にも自分を取り囲んでおり、自分の弱さや罪やその他全てのことが、主の御心の内に置かれている、そのことに感謝して生きる時、私たちは「そんな人は知らない」とは言わない生活へと導かれるのです。

 

 

 

第34回 イエスとピラト(マタイによる福音書27章11-26節)

 

 ユダヤの最高法院は主イエスを死刑に処する権限を有していませんでしたので、主イエスはローマ総督ピラトに引き渡され裁判を受けることになりました。ピラトにとりましては主イエスが「神の子、メシア」であることはどうでもよく、「ユダヤ人の王」であるかどうかが大切でした。ユダヤ人の王であるとすればローマの支配を覆しユダヤの王として反逆される恐れがあったからです。ここでも主イエスは最高法院で言われたことと同じく「それはあなたが言っていることです」とお答えになりました。ピラトはもともと主イエスは死刑に値するような罪人ではないと直感していましたし、ピラトの妻の夢見から、主イエスを釈放しようとします。ところで過越祭の際には囚人一人に恩赦を与える慣習となっていましたので、評判の囚人でありました「バラバ・イエス」か「神の子メシアと言われているイエス」かどちらかを選ぶように民衆に告げたのです。民衆はバラバを選択し、主イエスを「十字架につけろ」と叫び続けます。ここにピラトによる主イエスの十字架刑が確定します。主イエスを十字架刑につけたのは、主イエスを妬んだ最高法院のメンバーであり、自分の思い通りにならないと容易に気持ちを変えてしまう民衆であり、保身からそれを受け入れたピラトそして、「主イエスを知らない」と言ってしまう私たち自身でもあります。その私たちの罪を十字架とその流された血により贖ってくださっているのです。(感謝)

 

 

 

第35回 イエス、十字架にかけられ、葬られる(マタイによる福音書27章32-61節)

 

 主イエスは「ユダヤ人の王」として、ローマ帝国に反逆した罪を表向きの理由として十字架に架けられました。当時のローマ帝国の処刑法の中でも最も残酷残虐な重い刑罰でしたが、ローマの市民権を持たない者、または奴隷、身分の低い者であって、極悪非道な罪を犯した者または反逆者が十字架刑に架けられたのです。もう一つの理由として、当時のユダヤ人にとって「木に架けて殺される」ということはその人が神に呪われた者であることを意味していました。私たちと同じ肉体を持った主イエスは十字架上で私たちの想像を絶する苦しみをお受けになりましたが、それに加えて神の子が神に見捨てられ呪われた者となり、神の愛から完全に切り離された者として、私たちに代わって罪の裁きとしての真の死をお受けくださった、ということなのです。主イエスはお亡くなりになった後、私たちが亡くなったときと同じように葬られました。当時の埋葬は遺体をそのまま墓(石造りの祠)へ治め、大きな石の戸でふさいでしまうというものでした。新約聖書の4福音書の全てに記載されていますが、アリマタヤのヨセフというユダヤ人の身分の高い議員が自分の立場を悪くする恐れが大いにあったにもかかわらず主イエスの遺体を引き取り、自分の墓に納めたのです。主イエスは神の子であり、誕生の次第や福音を力強く語ったこと、癒しの業をされたこと、十字架上で死なれたことなど、私たちと根本的に異なるお方であるけれども、私たちと同じ肉体を持った人の死であったのです。主イエスは本当に死なれた、そのことは紛れようのない事実であったのです。

 

 

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第36回 復活し、弟子たちに現れる(マタイによる福音書28章1~15節)

 

 まだ夜が明けやらぬ日曜の早朝、主イエスが十字架にお架かりになってから三日目、二人の女性(名は二人ともマリア)が主イエスが亡くなられたことを嘆き深く悲しみつつ墓をじっと見つめて座っているところに天使が現れて告げます。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のあった場所を見なさい。」大きな石で蓋をされ封印され、番兵までつけていた墓がからっぽだったのです。父なる神様が、主イエスを復活させたのです。もちろん肉体を持っての復活でありました。私たちの罪を負って亡くなられた主イエスが復活されたということは、神は私たちの罪をお赦しくださり、死をも克服する新しい命の希望を私たちに下さった、ということなのです。さらに天使は「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と告げます。婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました。「恐れながらも」という意味は、死んでしまって過去の存在であったはずの主イエスであれば自分は変わる必要はないのですが、復活された主イエスとの関わりにおいて、出会いにおいては変えられなければならないからです。その一方で、「大いに喜び」とありますのは、もう一度原点からやり直すことができるという喜びなのです。弟子たちが意気消沈してすごすごと帰って行ったガリラヤに主イエスは先に行って待っておられる、信仰者としてもう一度最初から弟子たちを(私たちをも)立て直してくださる、ということなのです。婦人たちはその途上で主イエスに出会い「おはよう」と声をかけられます。この「おはよう」という言葉の意味は「喜べ」という意味で次の主イエスの言葉に繋がります。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と語られたのです。先の天使の言葉とそっくりですが天使が「彼の弟子たち」と言ったのに対し、主イエスは「わたしの兄弟たちに」と言われています。弟子を含む私たちは主イエスにより赦されて神の家族として兄弟として招いてくださっているのです。その恵みのゆえに私たちは喜ぶことが出来ると告げられているのです。復活された主イエスにより赦された私たちであるがゆえに永遠の命の希望を与えられて、私たちはどのような状況の中にありましても真に喜び生かされるのです。

 

 

 

第37回 イエス、天に上げられる(ルカによる福音書24章50-53節)

 

 主イエスが天に上げられたのは、復活されて後40日経ってのことでした。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」と聖書には記されていますが、地上の最期の主イエスの姿は、弟子たちを祝福される姿でした。祝福は神様の恵み、賜物、守り、支え、導きなのですが、主イエスが与えてくださる赦しであり、永遠の命の希望であり、私たちを捉えて離さない愛であります。祝福は元々ギリシャ語で「良い言葉を語る」という意味ですが、イエス様神様の側からは「祝福」となり、私たちの側からは「ほめたたえる」ということになります。私たちはこの主の祝福に支配される時、私たちからは自然と良き言葉「ほめたたえる」ことが起こるのです。そしてそのことがもっとも顕著に現れるのが主の日の礼拝なのです。主イエスが弟子たちを祝福された時「彼らはイエスを伏し拝んだ」と書かれていますのは、礼拝したという意味です。主イエスが十字架に架かられたとき、弟子たちは意気消沈し隠れていました。主イエスが三日目に復活した時も弟子たちはどういうことが起こっているのか理解していませんから、主イエスを神様として礼拝するに至っていません。主イエスが天に上げられる時、弟子たちを祝福されてはじめてはっきりと主イエスを神様として礼拝したのです。そして主イエスは今も神様の右に座しておられ、私たちのために執り成して下さっています。私たちには聖書の御言葉を通して、聖霊なる神様を通して、今も主イエスが私たち一人ひとりと共にいてくださることが分るのです。パウロもローマの信徒への手紙8章38・39節でこの祝福に与っている幸いをこう語っています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 私たちは主イエスの祝福の中に生かされている者です。この祝福の中で神様をほめたたえる者に変えられ、「良き言葉」を伝える者でありたいと思います。