日本キリスト教会信仰の告白 

                    

 

        日本キリスト教会信仰の告白                              (1953年10月第3回大会において

           (1985年10月第35回大会において一部改正)

「我らが主と崇(あが)むる神の独子(ひとりご)イエス・キリストは、真(まこと)の神にして真(まこと)の人、永遠なる神の経綸(けいりん)に従ひ、人となりて人類の罪のため十字架にかかり、全き犠牲(いけにえ)をささげて贖ひ(あがな)を成就し、復活して永遠の生命(せいめい)の保証をあたへ、救ひの完(まった)うせらるる日まで我らのために執成(とりな)し給(たま)ふ。

 おほよそ神の選びを受け、この救ひの御業(みわざ)を信ずる者は、キリストに在りて義と認められ、功(いさを)なくして罪の赦しを得、神の子とせらる。また父と子とともに崇められ礼拝せらるる聖霊は、信ずる者を聖化し、御意(みこころ)を行はしむ。この三位一体(さんみいったい)なる神の恩恵(めぐみ)によるにあらざれば、罪に死にたる人、神の国に入(い)ることを得ず。

 新旧約聖書は神の言(ことば)にして、そのうちに語り給ふ聖霊は、主イエス・キリストを顕示(けんじ)し、信仰と生活との誤りなき審判者なり。

 教会はキリストの体(からだ)、神に召されたる世々の聖徒の交わりにして、主の委託により正(ただ)しく御言(みことば)を宣べ伝へ、聖礼典を行ひ、信徒を訓練し、終りの日に備へつつ主の来り給ふを待ち望む。

 いにしえの教会は聖書に拠りて左の告白文を作れり。我らもまた使徒的信仰の伝統に従ひ、讃美と感謝とを以てこれを共に告白す。

(使徒信条) 我は、天地の創造主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。我は、その独子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は、聖霊によりてみごもられ、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦難(くるしみ)を受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちより復活(ふっかつ)し、天にのぼりて全能の父なる神の右に座し給ふ。かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審き給はん。われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交り、罪の赦し、体(からだ)の復活、永遠の生命(せいめい)を信ず。 アーメン」

  日本キリスト教会信仰の告白(口語文)

(2006年10月第56回大会において採択)
(2007年10月第57回大会において制定)

「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です。 主は、神の永遠の計画にしたがい、人となって、人類の罪のため十字架にかかり、 完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え、 救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます。
 神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、 功績なしに罪を赦され、神の子とされます。 また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行わせてくださいます。 この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、 神の国に入ることはできません。
 旧・新約聖書は神の言であり、そのなかで語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕らかに示し、 信仰と生活との誤りのない審判者です。
 教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わりであって、 主の委託により正しく御言を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、 終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます。
 古代の教会は、聖書によって次のように信仰を告白しました。 わたしたちもまた、使徒的信仰の伝統にしたがい、讃美と感謝とをもってこれを共に告白します。
(使徒信条)わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。 わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、処女マリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受(う)け、 十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し、 天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。 そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。わたしは、聖霊を信じます。 聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン」

 


 

 (上の二つは、元来の文語文とそれをもとに口語文に改訂した信仰告白文です。内容に変わりありません。近江草津伝道所の礼拝では文語文で信仰の告白をしています)