主日礼拝説教 タイトル(下の説教題とリンクしています)

(1) 「来て、見なさい」ヨハネによる福音書:1章35~51節)

(2) 「主の教会になるために」フィリピの信徒への手紙:1章3-11節)

(3) 「近江草津伝道所開設30周年を迎えて」フィリピの信徒への手紙:3章12~16節)

(4) 「愛はすべてを完成させるきずな」コロサイ信徒への手紙:3章12~17節)

(5) 「弱いときにこそ強い」 (Ⅱコリントの信徒への手紙12章1節~10節b)

(6) 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」Ⅱコリントの信徒への手紙6章1節~10節)

(7) 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」(Ⅰコリントの信徒への手紙1章26節)

(8)  「光の子として歩みなさい」(エフェソの信徒への手紙 5章6-14節)

主日礼拝説教(2024211日:定期総会の日)

 

       「光の子として歩みなさい」

                               聖書:エフェソの信徒への手紙 5章6ー14節

                                  説教者:田部 郁彦牧師

                                        日本キリスト教会西都教会

                                              近江草津伝道所兼任牧師 

 

 

 私たちが、 何よりも光に期待しているのは照らすことです。 明るく照らし出すことです。 つまり 「光の子として歩む」ことによって、 私たちは周りを明るく照らすことを期待されているのであります。 しかしそれはいわゆる 「明るい人になる」 ということではありません。 周りの雰囲気を明るくすることが大事なのではありません。 ここに記されていることは、もっともっと厳しいことなのです。 11節以下には「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 彼らがひそかに行っているのは、 口にするのも恥ずかしいことなのです。 しかし、すべてのものは光にさらされて、 明らかにされます」 (11~13節) と書かれております。 つまり 「暗闇の業を明るみに出す」 これが周りを照らすことだというのであります。

 しかし、間違ってはなりません。 「暗闇の業を明るみに出す」 というのは、単に他人の隠れた罪を暴いて責め立てることなどではありません。 そんなことは何も聖書が語らなくても、「私たちが常日頃していることではないでしょうか。 そうでなくても、 私たちは他人の罪ばかりを問題にし、暴き出し、 責め立てる傾向にあるからです。 この 「暗闇の業を明るみに出す」 ということの意味を正しく理解するためには、その続きを読まねばなりません。 そこには次のように書かれております。 「しかし、すべてのものは光にさらされて、 明らかにされます。 明らかにさ

れるものはみな、 光となるのです」 (13~14節)。

 実は、この最後の 「光となるのです」 が重要なのです。 光に照らされて、 罪が罪であると明らかにされると、今度は照らされたものが光となっていく。 照らされたものが光となるような、そのような仕方で光を照り輝かすことを言っているのです。 これは、キリストの救いの光を照らすということなのです。ですから、次のように続くのです。 「眠りについている者、 起きよ。死者の中から立ち上がれ。 そうすれば、キリストはあなたを照らされる」 (14節)。 神様が呼びかけておられます。 「死者の中から立ち上がれ」 と。 罪の中に死んでいるような状態で良いのか。 死んだままで良いのか。 立ち上がれ。 そう呼びかけて、 罪からの救いをもたらすキリストの光を照らそうとしておられるのです。そのために神様は教会を用いようとしておられるのです。 先に主イエス・キリストに結ばれて光とされた者を用いようとしておられるのであります。そのようにキリストの光を照らすためにであります。

 実際、そうではないでしょうか。 私たち自身も、先に主イエス・キリストに結ばれた人々を通して、 主キリストの光に照らされたのではないでしょうか。 その主キリストの光によって私たち自身の姿が見えてきたのではないでしょうか。 私たち自身の罪深さも見えてくるようになったのではないでしょうか。 そのようにして悔い改めへと導かれ、 神様の赦しをいただいて、神様と共に生きるようになったのではないでしょう。そのように主キリストの光、 恵みの光に照らされて、 初めて罪が罪として明らかにされるのであります。 私たちのしてきたことが 「口にするのも恥ずかしいこと」 であり、 まさに闇の業であるということが分かってくるのであります。 しかし、 私たちの罪が明らかにされる時、 私たちは絶望しなくて良いのです。 光から逃げなくても良いのであります。 なぜならば、 主キリストが照らすその光は、 人を起き上がらせることのできる恵みの光だからです。 主キリストが救ってくださるのです。 「明らかにされるものはみな、 光となる」 (14節) のです。

主日礼拝説教(2023129日:定期総会の日)

 

       「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」

                               聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章26節

                                  説教者:田部 郁彦牧師

                                        日本キリスト教会西都教会

                                              近江草津伝道所兼任牧師 

          

 教会とは本来十字架のもとに低くなる者として召された人々の共同体であるはずでした。しかし十字架の言葉が失われてゆくに従って、コリントの教会がそのような本来の姿から離れていく危機にありました。それゆえ、パウロはコリントの人々にこう語りかけました。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」と。

「召されたときのこと」。これは、ただ以前の状態を振り返れということではありません。これは神様が召してくださったという事実の全体を指す言葉であります。つまり、彼らコリントの人たちが、何故そこにいるのかということであります。

それは一方的な神様の召しによることなのだということ、彼らは、その事実を思い起こさなければならないのです。

 彼らコリントの人たちは、知恵があるから、能力があるから、家柄がよいから召されたのではありません。神様は無学な者、無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者をあえて選ばれる方だからなのです。ちろん、実際には、知識のある者やこの世の有力者がいたことでありましょう。コリントの教会には、ユダヤ人の会堂長であったクリスポなどもおりました。しかし、そのような人たちもまた、自らの愚かさと無力さと罪深さを知って、主の召しに応えたのでありました。その意味では他の無力な人々とかわりはありません。そして、神様がそのような人たちを召されるのは、だれ⊥人、神様の前で誇ることがないようにするためだとパウロは教えているのです。

 それは私たちにおいても同じです。私たちもまた、神様に召されて、ここにおります。私たちもまた、愚かさと無力さを見込まれて神様に召されました。馬鹿にするなと腹を立てるでしょうか。それとも自分のような者が召されていることに大きな喜びを覚えているでしょうか。しかし、ともかく、召されるというのはそういうことであります。そのことを忘れる時、教会は鼻持ちならない選民意識が支配するところになったり、人間的な力関係による分派争いが生じたりするようになるのです。私たちは常に十字架の言葉のもとに身を置かなければなりません。そして十字架の言葉のもとにあって、私たち自身の召しを思いおこさなければなりません。

 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と購いとなられたのです」。十字架の言葉は、最終的に私たちをそのように言わしめる言葉です。キリストは私たちの義となられました。ただ十字架にかけられたキリストのゆえに、私たちは罪を赦され、義とされ、神様との正しい関係に入れられたのであります。キリストは私たちの聖となられました。ただ十字架にかけられたキリストのゆえに、私たちは聖なる者、すなわち神様のものとして、神様に属する者として、神様の民として生きることができるのであります。そして、キリストは私たちの購いとなられました。ただ十字架にかけられたキリストのゆえに、私たちは罪から、そして滅びから救われるのであります。それゆえパウロはエレミヤ書を引用して言うのです、「誇る者は主を誇れ」と。十字架の言葉は私たちから人間的な誇りをはぎ取ります。しかし、私たちを真の誇りに生きる者とするのです。それは何によっても奪われない誇りです。なぜなら、それは私たちの力によって獲得した誇りではなく、召されて与えられた誇りだからであります。

主日礼拝説教(2022130日:定期総会の日)

 

       神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」

                      聖書:コリントの信徒への手紙 二 6章1~10節

                                          説教者:田部 郁彦

                                       (日本キリスト教会西都教会牧師)

                                       (近江草津伝道所兼任牧師)

(コリントの信徒への手紙 二 6章1~10節)  

   6:1 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。6:2 なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。6:3 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、6:4 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、6:5 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、6:6 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、6:7 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、6:8 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、6:9 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。     

        

  「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」パウロは、ここで一つの勧めをしております。それは「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。(神の恵みをいたずらに受けてはならない)」という勧めであります。この「勧める」という言葉でありますが、これは、この手紙の5章の20節にも出て来る言葉であります。そこではパウロが「神がわたしたちを通して勧めておられる」と言っております。この二つは関連しております。この5章20節の考えを合わせて「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。」ということを考えますと、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」という勧めはパウロという人間の勧めであると共に、パウロを通して神様が勧めをしているということであります。その神様からの勧めはといいますと、「いただいた恵みを無駄にしてはいけない。」ということであります。

神様は今、私たちに恵みを与えておられる、だからわたしたちは、それをムダにしてはならないということであります。この言葉を読みますと思い出す主イエスの「たとえ」があります。それは主イエスの種蒔きのたとえであります。種を蒔く者が、種を蒔きに行ったところ、その種はいろんな所に落ちました。道端に落ちたり、石だらけの所に落ちたり、茨の中に落ちたり、良い土地に落ちたりしました。初めの三つは状況は違いますけれども、実を結ばないということでは、皆、共通しております。良い土地に落ちた種だけが実を結んだ。この良い土地に落ちた種は恵みを無駄にしなかったということであります。他の三つは、神様の恵みを無駄にしたということになります。神様が、救いの御言葉を語って下さったという、この事実は誰に対しても種として蒔かれております。しかし、それを「どう受けとったのか」ということでもって、これをムダにしてしまう者もあれば、豊かな実を結ぶ者もいる。パウロは、ここで折角、神様が与えて下さった、この救いの恵みを、「実を結ばないような受けとり方をしてはいけない」と勧めているのであります。しかもこの勧めは、パウロの個人的な勧めなどではなくて、パウロが「わたしを通して、神様がお語りになった言葉だ」と言っているのであります。

私たちも今、毎週、礼拝を通して、福音にあずかり、恵みが私たちに注がれております。パウロは、この手紙の最初の読み手にも、そして今の読み手の一人である私たちにも、「今は恵みの時であり、救いの日である。今、あなたが福音を聞いているこの時こそ、恵みの時なのだ」と言っているのであります。そればかりではありません。パウロが、いくら、このように勧めてくれていても、もしも私たち自身、ただ人に勧めているだけで、自分はと言えば、神様の恵みをムダにしているとするならば、これはもう、どうしようもありません。しかし、現実に、信仰者は、しばしば、そういう危険に陥ってしまうのであります。信仰者は皆、御言葉を伝える使命に生きているものたちであります。その私たちが、この御言葉を人に伝えるだけで、あるいは、伝えたいと思っているだけで、実際に、自分自身はその福音に生きてはいないということがあるのであります。御言葉を伝える使命にある信仰者は、本当にそうならないように警戒しなければなりません。しかし、間違ってはなりません。信仰者はいつも律法に縛られて生活をしなければならないと言っているのではありません。信仰者が生きるのは律法に生きるのではなくて、福音に生きるのであります。信仰者は、福音によって生活をしなさいと、他の人々に勧めるだけではなくて、 自分自身が福音によって生きていなければならないのであります。            

        

       

 

 

 

 主日礼拝説教(2021年度 定期総会の日)

 

        「弱いときにこそ強い」

                      Ⅱコリントの信徒への手紙12章1節~10節 

                            近江草津伝道所兼任牧師

                                  田部 郁彦

 

           (聖書:Ⅱコリントの信徒への手紙12章1節~10節) 

           12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事につ

        いて語  りましょう。12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三

        の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:3 わたしはそのよ

        うな人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:4 彼は楽園にまで引き上げら

        れ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。12:5 このような人のことをわたしは誇り

        ましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。12:6 仮にわたしが誇る気になった

        としても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしか

        ら話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、12:7 また、あの啓示された事があまり

        にもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられ

        ました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。12:8 この使い

        について、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなた

        に十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に

        宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そ

        して行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いから

        です。

 

 使徒パウロは「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と言っております。(11章30節)。そしてパウロは「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」(7節)と、自分の身に与えられた「とげ」の話を始めております。この「とげ」の具体的な意味については語られてはいません。古くから様々な推測がなされてきました。ある人はパウロがてんかんであったのではないかと言い、ある人は、パウロが目を患っていたのではないかと言っております。いずれにいたしましても、パウロが何らかの病を得ていたのは事実ではないかと言うことであります。

 しかも、この「とげ」はいかなる意味においても、誇りとは結び着かないものとして語られており、むしろそれは「思い上がることのないように」と与えられたものだとパウロは言っております。ですから、この「とげ」によって引き起こされる苦しみには、人間に磨きをかけるといった意味合いなどありません。「艱難汝を玉にす」というものではありません。それは「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」だとパウロは言っております。そこには、この「とげ」が少なからず宣教の妨げになったという意味合いも含まれているのかもしれません。

 いずれにいたしましても、その「とげ」自体が誇りとなり得る要素は完全に排除されております。純粋な意味で「弱さ」。誇りとは対極にある「弱さ」以外のなにものでもありません。

 しかし、パウロはそのような「弱さを誇る」と言うのです。それは一体何故でありましょうか。パウロは言っております。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(8~9節)。

 誇り得る何かを持つこと、そのようにして自らを誇り得る人間になることよりも、もっともっと大事なことがあることをパウロは示しているのであります。主イエス・キリストの力が宿ること。キリストの力が弱さの中において現れること。私たちの人生が私たちの力の現れではなく、キリストの力の現れとなること。教会の働きが、私たちの力の現れではなく、キリストの力の現れとなることであります。

 私たちにおいて、どう考えても「誇り」とは結び着かない「弱さ」は、一体、どこにあるでしょうか。キリストの力の現れを必要としている「弱さ」は、どこにあるでしょうか。「サタンから送られた使い」としか言いようのない「とげ」は、一体、どこに刺さっているでありましょうか。

 そこにこそキリストの力が現れるのだと信じるのでなければ、弱さを嘆いて、弱さを卑下して生きるだけのことではないでしょうか。しかし、そこにこそキリストの力が現れるのだと信じる人は、弱さをもった自分をそのまま差し出して祈るのではないでしょうか。人は卑下して生きることもあり得るし、だからこそキリストを求める人となることもできるのであります。

 主キリストは、私たちに向かっても言っておられます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。この言葉を、信仰によって私たちへの言葉として受けとめようではありませんか。そして、パウロと共に信仰をもって次のように言い表わそうではありませんか。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」。

 

  主日礼拝説教(2020年2月9日 定期総会の日)

 

「愛はすべてを完成させるきずな」

                              コロサイの信徒への手紙3章12~17節

 

                           日本キリスト教会西都教会牧師牧師

                           近江草津伝道所応援牧師        田部郁彦

 

 (聖書:コロサイの信徒への手紙3:12-17)

 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、

寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがた

を赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 これらすべてに加えて、愛を身に着けな

さい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するように

しなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝

していなさい。 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教

え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。 そして、何を話す

にせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

 

  主イエスは、「富める青年」に「あなたに欠けているものが一つある」と言っています。パウロも、私たちのキリスト者としての歩みにおいても「欠けているものが一つあるJということを言っているのではないでしょうか。たとえ私たちが「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」たとしても、そしてたとえ「互いに忍び合い、赦し合」うことが出来たとしても、なお「欠けているものが一つある」というのではないでしようか。それが、実は14節でパウロが言っていることであります。「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい」とであります。つまり、私たちが、どんなに「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」たとしても、どんなに「互いに忍び合い、赦し合」うことが出来たとしても、つまりどんなに聖書のことが分かっていても、礼拝をどんなに忠実に守っていても、どんなに一見すばらしい信仰生活、教会生活をしていたとしても、そのような信仰生活、教会生活には、「すべてを完成させるきずな」が必要なのです。この14節を以前使っていた口語訳は「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」となっていました。「すべてを完成させるきずな」よりも、「すべてを完全に結ぶ帯である」と訳した方が、この部分の翻訳としては正しいと思います。ちなみに一昨年完成した聖書協会共同訳では「愛はすべてを完全に結ぶ帯です」と訳されています。これが正しい訳だと思います。なぜなら、ここでパウロは「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着

けなさい」と勧めている、それらを「身に着けなさい」、「着なさい」と勧めているからです。つまり衣服のことが語られている箇所で「きずな」ではふさわしくありません。ここでパウロはその「身につけ」「着たもの」が身体から離れて、脱げてしまわないように、しっかりと「帯で結びなさい」と言っているのであります。

 たとえ「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」などという立派な着物を、いくら身に着けていても、それを帯でしっかりと身体に結び着けておかなければ、かえってだらしなく見えてしまう。だからこそ「すべてを完全に結ぶ帯」が必要なのでありますし、それがどんなに大切であるかということをパウロは語っているのです。たとえ「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を身に着け、その上、「互いに忍び合い、赦し合」うことが出来たとしても、それを「完全に結ぶ帯」が必要であると言うわけです。それでは、その「帯」とは、新共同訳で言う「きずな」とは一体何でありましょう。それは「愛」であります。この「愛」が「帯」とならなければ、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」も、「互いに忍び合い、赦し合」うことも真実なものにはならない。確かに、それらのものは身体には着いてはいても、しかし「帯」、「きずな」としての「愛」がなければ、それは形ばかりのもの、表面的なものでしかなくなってしまい、衣服、着物も、その役割をはたすことができなくなってしまうのであります。

 それでは形ばかりの「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」とは何でしょうか。また表面的にだけ「互いに忍び合い、赦し合」うことがあっても、腹の底は怒りで煮えくり返っているということでは「互いに忍び合い、赦し合」うことの意味は全くありませんし、虚しいとしか言いようがありません。パウロはⅠコリント13章2節で「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っ

ていようとも、愛がなければ、無に等しい」と言っています。またⅠヨハネ4章7~8節では「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」とも言われています。

 私たちが、どんなに「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」たとしても、どんなにr互いに忍び合い、赦し合」うことが出来たとしても、つまり、どんなに聖書のことが分かっていても、礼拝をどんなに忠実に守っていても、どんな一見すばらしい信仰生活、教会生活をしていたとしても、もし「すべてを完全に結ぶ帯である」「すべてを完成させるきずなjである「愛」がなければ、愛なる神を知らないとしか言いようがないし、またそれはr無に等し

い」ことではないでしょうか。そういう意味で、パウロが「これらすべてに加えて」といって「愛j を挙げているのは、新しくされた人間、私たちキリスト者にとって、それはとても重要なことなのであります。

 

主日礼拝説教(2019210日:定期総会の日)

 

      近江草津伝道所開設30周年を迎えて

                                                                      聖書:フィリピの信徒への手紙3章12~16節

                                                                                   田部 郁彦

                                              (日本キリスト教会西都教会牧師 当伝道所応援教師)

      

                聖書:フィリピの信徒への手紙 

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。

何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのもの

を忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えにな

る賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 だから、わたしたちの中で完全な者は

だれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はその

ことをも明らかにしてくださいます。 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進む

べきです。

 

 今年度の祈祷課題は、フィリピの信徒への手紙3章12~16節から導かれたものであります。近江草津伝道所は、今から30年前に群れとしてのスタートを切ったのであります。そして、今も、ゴールを目指して走り続けています。しかしながら、未だゴールには到達していないのであります。未だ途上にあるのであります。しかしながら、ゴールをしっかりと見定めて、走り続けていませんと、途上あることすら曖昧になってしまうのであります。特に、走り続けてきた時間が長くなる時に、最初に目指した目標が霞んでしまい、そのゴールが見えなくなってしまい、時には、ゴールに達したような気にさえなってしまうのであります。そして、「わたしは既にそれを得た」「わたしは既に完全なものになってしまった」、そのようにゴールに到達し、レースは完了したと思ってしまう人さえ出てきてしまうのであります。そういたしますと、人は、それ以上に走ろうとしませんし、走り続けたりはしないものであります。その人は、実際に、目標、ゴールには到達していなくても、その人にとってのレースは、そこで終わってしまうのであります。そのようなことを考えますならば、私たちは実際に「到達したところに基づいて進む」ことが大切である、ということが理解できるのであります。未だ、目標に到達していないにもかかわらず、思い違いをして、到達したつもりになっていてはいけないのであります。もし私たちが、「到達したところに基づいて進む」ことをしないなら、その競技自体がそこで終わってしまうのであります。 

 パウロの関心事は、未だ目標に、ゴールには到達していないフィリピの教会に向けられております。地上の教会は、フィリピの教会にしろ、そして私たちの教会にいたしましても、未だ目標に、ゴールに到達はしてはおりません。その途上にある教会にパウロの関心は向けられております。パウロの願いは、途上にある地上の教会が誠実に神様の呼びかけに応答し、感謝して、与えられた福音宣教と教会形成の使命を果たし、そして目標目指して走り続けることなのであります。ところで、今私たちは、目標目指して、一体、何処を走っているのでありましょうか。それは「途上にある教会の時」を走っているのであります。十字架と復活の出来事から、そして主イエス。キリストが再び来てくださるその時の、その「中間の時」を走っているのであります。つまり十字架と復活の出来事と、終わりの時に神の国が完全な仕方で到来する、その「中間の時」をっているのであります。ある人が「教会はこの中間の時を神の都を仰ぎ望みつつ歩む信仰者の集団である」と言っております。私たちは、実際に、その「中間の時」にあって「到達したところに基づいて進む」ことが大切なのであります。近江草津伝道所も、地上にある神の民として、この30年、「中間の時」の中で、目標を目指して走ってまいりましたし、そして今も、主なる神様の呼びかけに応答しながら走り続けております。そして今、到達したところに、私たちは立っているのであります。キリストに捕らえられ、それから今に至まで召しに応え、使命を果たしながら走り続けてきた行程があって、そうして今このところに到達したのであります。確かに今はまだ目標に到達してはおりませんし、今、私たちの教会は不完全であります。本当に主の召しに十分にお応えできたとは言えません。しかし、パウロは申します、まだ到達はしていない、そしてなお不完全であるが、その今、「到達したところに基づいて進む」ことの大切さを教えてくれているのであります。もし私たちが、「到達したところに基づいて進む」ことをしないなら、その競技自体が途中で終わってしまう、中断してしまうのであります。

 

主日礼拝説教(2018211日:定期総会の日)

 

                「主の教会になるために」

                      聖書:フィリピの信徒への手紙:1章3-11節

                                          説教者:田部 郁彦

                                       (日本キリスト教会西都教会牧師)

                                       (近江草津伝道所応援教師) 

 

フィリピの信徒への手紙1章3~11節

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 あなたがた一同のために祈る度に、

いつも喜びをもって祈っています。 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている

からです。 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げ

てくださると、わたしは確信しています。 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然

です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共

に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あな

たがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。 わたしは、こう祈ります。知

る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられ

るように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 イエス・キリ

ストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるよう

に。(『新共同訳聖書』より)

 

 私たちの教会の内側の問題だけにでも限定して、福音宣教、伝道、そして教会形成など、信仰の継承の問題、そのような問題が、本当に、私たちの教会の肢一人一人の切実な問題として祈りの課題となっているでありましょうか。これは本当に神様の助けなしには解決の可能性などないような切実な問題であるというような受け止め方が出来ているでありましょうか。そのような祈りの課題が一人一人の日々の密室での祈りの課題になっているでありましょうか。また公同の祈りの課題になっているでありましょうか。

 「最近、私は祈ることが少なくなってきた」という方はいませんか。ある意味で、満ち足りている人は祈りません。その必要を感じないからです。もう十分だからです。それならば、私たちには、本当に欠けているもの、不足しているもの、神様にお願いしなくてはならないものは、はたしてないのでしょうか。いえあるはずです。にもかかわらず祈らないのではないでしょうか。自分の本当の心の底からの祈り、そのような祈りを、毎日の生活のどこかで出来たらどれほどうれしいことでしょう。

 パウロは、フィリピの教会の中に、きっと、あったであろう神様の助けなしには解決の可能性のない問題を見据えて祈っています。しかし、そのような困難な問題を担いながら祈っているパウロでありましたが、彼は悲壮な思いに支配されながら祈っていたのでしょうか。いいえ、それは違います。彼は何と、「いつも喜びをもって祈っています」というのであります。私たち自身、祈りの課題が困難であればあるほど、悲壮な思いに駆られてしまい、祈ることが億劫になってしまうなどということがあるのではないでしょうか。そして、実際に、祈っているときにも、暗く、重く、悲壮感を漂わせながら祈っているなどということがあるのではないでしょうか。しかし、パウロは違いました。パウロは、祈る自分がおかれている状況が如何に困難であっても、そしてまた、その祈りの課題として与えられていることが如何に困難であっても、そこで、決して、落胆したり、悲壮感を漂わせながら祈るというようなことはありませんでした。

 それでは、どうしてパウロは、そのように「いつも喜びをもって祈る」ことができたのでありましょうか。それは、パウロが、今、祈りをささげている相手である神様が、どういうお方であるのかを知っていたからであります。確信を持って、その神様を信頼することが出来たからにほかなりません。だからであります。そのような神様の恵みを、パウロは繰り返し経験させられてきたからではないでしょうか。たとえば自分自身の回心の経験を通して、また、伝道旅行の経験を通して、パウロは、不思議な仕方で、神様が人をとらえてくださることを、そして信仰者を造り出してくださることを経験させられていたからではないでしょうか。つまりパウロはキリストの福音を携え、人々に宣べ伝えていくときに、神様が人々の中に信仰を造り出しておられることを目の当たりにしたからではないでしょうか。だから、パウロはいつも喜びをもって祈ることができたのではないでしょうか。

 今、パウロの祈りの相手である神様は、無から有を造ることがおできになる方であります。神様は信仰者を無からお作りになる方であります。そのような神様を信じているなら、どうして、暗く、重く、悲壮な思いに支配されながら祈ることがあるでしょうか。もし、死に勝利して、よみがえられた主イエス・キリストを信じているならば、私たちは、「いつも喜びをもって祈る」ことが可能とされているのではないでしょうか。

 そして、もう一言付け加えるならば、今、パウロがフィリピの教会の人たちのことを覚え、「いつも喜びをもって祈る」ことができたのには、もう一つの理由があります。それは、まさに、また、「あなたがたが(フィリピの教会の人たちが)最初の日から今日まで、福音にあずかって

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いるから」であります。フィリピの教会の人たちがどんなに困難なことがあろうとも、決して、福音から離れることなく、あの最初の日から、ずっと今日に至るまで福音に与っていたからであります。だからであります。それは、パウロに、どれだけ大きな喜びをもたらすこととなったでありましょうか。パウロは本当にそのことを覚え、心から喜んで、彼らのことを祈りの内に覚えることができたことでありましょう。

  この年、近江草津伝道所に属する私たちも、神様の助けなしには解決の可能性などないような切実な問題を、祈りの課題としているような時でも、神様を信頼し、キリストの福音に聞き従うことによって、決して、暗く、重く、悲壮な思いに支配されることなく「いつも喜びをもって祈」っていけるようにしていきたいと思います。

 

 

 主日礼拝説教

 

  「来て、見なさい」

 

                                                                                                                                                                                田部郁彦牧師

                                   (西都教会牧師、近江草津伝道所応援牧師)

 

聖書: 「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、

「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが

従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――ど

こに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこ

で、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊

まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・

ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を

注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。

イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶこ

とにする」と言われた。

 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と

言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会

って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレ

の人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っ

たので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、

彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、

「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポ

から話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、

あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあ

なたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言わ

れた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見

ることになる。」          (ヨハネによる福音書 1章35節~51節)

 

    この箇所に記されている出来事はヨハネによる福音書だけしか伝えておりません。ある意味で後の弟子たちのあり方を示す象徴的な出来事であるとも言えます。弟子たちは、主イエスについて行き、その生活、十字架における死、復活を通して、主イエスが、どこに留まっているかを見、そして自らもまた主イエスのいるところに留まる者となったのであります。しかし、彼ら弟子たちは主イエス・キリストが見せてくださった、父なる神様との交わりの中に留まっただけではありません。そこからさらに、弟子たちは父なる神様との交わりへと招く、主キリストの招きの声となっていったのであります。「来なさい。そうすれば分かる」と。

 

 そのことをさらに良く示しておりますのは、それに続くもう一つの出来事であります。翌日、主イエスはフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われました。フィリポについては、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であったと記されております。どうしてこんなことをわざわざ書く必要があったのでありましょうか。それは既に主イエスと出会ったアンデレたちと同郷人であることが、フィリポと主キリストとの出会いのきっかけとなった、ということを言いたかったかもしれません。41節には、「まず自分の兄弟シモンに会って」と書いてあります。ですから次がフィリポだったのかも知れません。

 

 そのようにして主イエスに出会ったフィリポは、ちょうどアンデレがしたように、ナタナエルに主イエスのことを伝えております。しかし、ナタナエルの反応は冷ややかでありました。彼はつぎのように言っております。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。もちろん彼は救い主を待ち望んではいなかった、というわけではなかったでありましょう。彼もイスラエルの伝統に生きる者であったに違いありません。ですから、当然、彼もまたメシアを待ち望んでいたと考えられます。しかしナタナエルにとってはナザレ出身ということがつまずきとなりました。なぜなら、ナザレはガリラヤの小さな町に過ぎなかったからです。そのような片田舎からメシアが出るわけがないということなのでありましょう。

 

 そんなナタナエルに対して、フィリポが口にした言葉、それが「来て、見なさい」という一言です。聞き覚えのある言葉であります。それもそのはず主イエスもこう言われました。「来なさい。そうすれば分かる」と。こちらでは「分かる」となっておりますが、これはもともと「見る」という言葉であります。「来て、見なさい」と主イエスも言っておられました。(ギリシア語の単語は違います。)確かにフィリポもまたここでナタナエルにとっての主キリストの招きの声となっていることが分かるのであります。

 

 フィリポはナタナエルに「来て、見なさい」と言いました。ですからナタナエルは見るために来ました。しかし、なんと近づいて来るナタナエルについて、主イエスは次のように言われました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」。ナタナエルは、主イエスが、あまりに唐突に自分のことをそのように語られたので、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と尋ねました。そうすると主イエスは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。ナタナエルは見に来たのに、実は見られていた。ナタナエルが主イエスを知る前に、ナタナエルは主イエスによって知られていたのでありました。これにはフィリポも驚いたに違いありません。彼は自分が主イエスのことを伝えたつもりでいたのに、伝えた相手は、既に、主イエスから知られていたというのでありますから驚くのも当然です。

 

 しかし、どうでしょうか、主イエス・キリストの招きの声となるとは、そういうことなのではないでしょうか。私たちが「来て、見なさい」と言って誰かを主イエスのもとに連れて行く時、そしてその人が主イエスと出会った時、主イエスは、既にその人を見ておられたという事実を目の当たりにすることになるのであります。

 伝道に携わる際に、自分はそんな主イエスの声に過ぎなかったのだということを色々な折りに気づかされるのであります。私たちは、この一年、本当に「来なさい、そうすれば分かるよ」と言っておられたのは、主イエス御自身なのだということを確信し、伝道のために、仕えて行きたいと願うものであります。